高麗人蔘の歴史と大根島
優れた漢方薬として知られる高麗人蔘は、朝鮮や中国東北部の山林の樹木の下に自生していたウコギ科の多年草の植物で、和名では、御種人蔘と呼ばれています。
中国では、万里の長城と3000人の宮女で知られる秦の始皇帝が愛飲してから、薬効高い漢方薬として数千年に渡って珍重されてきたとか。
以来、身体自身の治癒能力を高めることに重きをおいた東洋医学の貴重薬として、広く東洋人の間で大切にされてきました。
その高麗人蔘が日本に入ってきたのは、江戸時代でした。その万能ともいえる薬効が広まり需要が増してきたことから、貞享2年(1685年)、幕府が江戸に朝鮮人蔘座を開設。高値で取引が行われたということです。
その後、松江藩でも江戸幕府から朝鮮人蔘売座が認可され、安永2年(1773年)に藩営の人蔘畑を松江市に開墾。質のよい高麗人蔘の栽培に向けての熱心な取り組みが効を奏し、一時は、競合産地だった日光、会津藩の1万斤(1斤は600グラム )を上回る2万斤の生産量をあげ、藩の財政を潤わせました。
今も、市内には製造工場や役所が設けられていた場所に「人蔘方」という地名が残り、屋根型の門構えの遺構が江戸時代の隆盛を偲ばせています。
その藩の直轄事業だった高麗人蔘栽培は、幕末には八束町(大根島)、松江市など28カ町村で行われ、とくに八束町(大根島)は、地味好適にして県下でも有数の高麗人蔘の主産地として名を上げていきました。
八束町の通称である「大根島」の地名は、かつて 高麗人蔘が門外不出の産物であったため、島で栽培をしていること を隠すために「人蔘島」ではなく、「大根島」と呼ぶようになったという逸話も伝えられています。
天保年間(1830~1843年)より栽培されるようになった大根島の高麗人蔘は、本場韓国産と類似しており、ほかの産地の中でも群を抜いていました 高麗人蔘は、種をまいてから収穫まで6年の歳月を要します。
また、連作を嫌い、一度収穫した畑には20年もの期間、植えることができません。それだけに、当時から質の良い土壌と栽培管理の技術が求められました。
栽培管理は、藩直営の「御手畑」において、選ばれた数名の「御手人」によって行われ、一般には栽培や精製方法は極秘でした。
しかし、畑地の仕込、小屋掛け、種蒔き、手入れ、採掘などの労働は島民が強制的に強いられ、栽培を影で支えていました。
また、大根島は太古の昔、隣県の大山(1729メートル)の噴火でできた島で、土質はミネラル分を豊富に含んだ火山灰土質。
それが人蔘の栽培に好適だったのです。
やがて、質の高い大根島の高麗人蔘は外国にも輸出されるようになり、「雲州人蔘」の名で高値で取引されるようになりました。
しかし、明治維新にともない松江藩は廃止。
人蔘栽培も明治5年に民営化され、一時、個人の独占的支配を受けましたが、明治7年に自由販売が可能になり、島の人々による「金の成る島」に向けた一歩を歩み始めたのです。
その後、全島あげての人蔘振興に取り組み、明治23年からわずか5年の歳月で生産量は4倍にもなり、その品質を見込まれた製品は盛んに清国(現中国)へ輸出されました。やがて県下の業者を集めた「雲州人蔘同業組合」が発足。最盛期には、全島の3割から4割の住民が栽培に従事したということです。
こうして大根島の「雲州人蔘」は江戸末期からの島の人々の苦労と情熱に支えられ、名声をますます高め、今も世界の一級品として認められているのです。