恵春堂の軌跡 ~大地の力に夢を託して~
当地の人蔘は18世紀初め、松江藩松平家の六代藩主・宗衍公が赤字財政を立て直すために、幕府から拝領した種で栽培したことに始まります。人蔘は金より価値があるとまでされ、「おたね人蔘」と呼ばれました。
大根島では19世紀半ばから栽培が始められ、火山島で黒ぼく土壌であったため、ことのほか、良質の人蔘が育ちました。
明治時代には、庶民が人蔘を栽培できるようになり、昭和30年代頃からは盛んに栽培されるようになりました。門外不出であった松江藩の栽培方法を忠実に守り、島民気質も相まって丁寧に育てられた人蔘は、本場、台湾や香港に輸出され、高い評価を得ていました。けれど貴重な輸出品ゆえ、島の人が摂ることはありませんでした。
昭和40年代の初め、由志園の初代園主となる門脇栄は、大きな夢を抱いて奔走していました。
広大な農地が要る高麗人蔘を栽培できる農家は限られ、島には企業などないため、女たちは花の行商に、男たちは出稼ぎに行かなければなりませんでした。門脇家も例外ではありません。そこで栄は、島の人々が家族一緒に暮らせるようにと、観光施設を造ろうとしていたのです。それまでいろいろな事業を行ってきた栄の、それは最後の、そして最大の夢でもありました。
しかし、栄は子どもの頃から病弱で、長じても病気に悩まされ続け、当時は大きな病気も抱えていました。そんなある日、所用で島を訪れた人に、「ここでは高麗人蔘を作っているだろう。体にいいものだから、島の人もどんどん摂りなさい」といわれ、人蔘液を作っていた農家にわけてもらい、飲み始めました。すでに還暦の頃でしたが、体調が良くなり、おかげで誰もが不可能だと思っていた日本庭園・由志園を完成させることができたのです。 そして、2代目園主となった門脇恵美子は、健康を誰より、何より願った父の志を受け継ぎ、昭和54年に、高麗人蔘の販売を手掛ける「恵春堂」を由志園にオープンさせました。
最初は、有効成分の含有量が最も多くなる6年根をエキス状にした「高麗人蔘液」のみでしたが、手軽に摂れるようにと顆粒タイプやドリンクを作り、せっけんや基礎化粧品など、高麗人蔘を使った数々の商品も生まれました。
これらの商品には、「一人でも多くの皆様に人蔘の良さを知っていただき、健やかな生活を送っていただきたい」という門脇社長の願いが込められています。
「島で栽培していながら、島の人はそのおかげに預かることがなかった人蔘。父が飲み、自分でも飲み、全国のお客様からも嬉しいお声をたくさんいただき、本当にすごいものだと実感しています」と、門脇社長。使われる方の気持ちになって、とことん商品の質にこだわるというのも、昔も今も変わらない方針です。
「こんな素晴らしいものをご先祖様が残してくださって、本当にありがたいです」と、門脇社長は今日も自ら売店に立ち、皆様の健康を願って、人蔘への思いをお伝えしています。